第13話

    いつの間にか雨音に代わって、蝉がうるさい程に鳴いている。

    辺りは眩しい真夏の日差しに包まれ、花壇には背伸びした向日葵が揺れている。ふと隣を見ると、白い日傘を差した聖名が見つめていた。腕を伸ばし自分に何かを渡そうとする。口許が動く。けれど言葉は蝉の声に掻き消される。

 聖名が掌を上に開くと、艶のある黒い珠を連ねたものが載っていた。珠の先に金の縁取りがある十字架が揺れている。

(これ・・・)

    その時、突然視界が映画のフィルムのように次々と入れ替わった。

    自分を見つめる聖名。

    聖名が瞳に映り込む自分。

    向かい合う自分と聖名を離れて見る景色。その俯瞰。

    これは誰の目に映った風景なのか、定らない視点に気分が悪くなって来る。

(聖名、渡しちゃダメだ。)

    精一杯叫んだつもりが水の中にいるように声にならない。

    この先起こる酷いことを知っている。

    どんなに悔やんでも時間は巻き戻らない。聖名を巻き込んでしまった事実は変えられない。

(受け取るな、一人で立ち向かわなきゃいけないって分かってたのに・・・!)    

    それでも、聖名の不思議な色の瞳が、その迷いの無い真っ直ぐな視線が自分を動けなくする。

 校舎の屋上から彼女が見ていた。

    あの日千切られた爽の魂は、今も彼女の手の中に握られたまま。    

    喉を貫かれても尚、自分を凝視し続けたその目が恐ろしくて、聖名の魂までもに縋ってしまった。   

「もうやめてくれ!俺を連れて行けばいいだろ!」

 一瞬の光が、白い歯を見せてニイと笑う彼女の顔を鮮明に照らし出すと、稲妻に焼かれるような彼女の痛みが流れ込んで来た。

(いっそ、このまま・・・)

 逃れられない。爽は呻くように懇願した。

    彼女の冷たい指先が爽の心に触れてかたちをなぞり、やがてそれを捕らえた。

 

「爽ぁ!!」

    その声は、まさに青天の霹靂の如く爽の芯を貫いた。

 続けざまに痺れるような衝撃が両頬を打つ。鷲掴みにされた肩を激しく揺す振られる。

    突然、力強く現実感を持った体温で、爽は全身をきつく絞るように抱き締められた。

「戻ってこい!!」

    ハッキリと、自分のものでは無い鼓動が耳に響く。頭蓋骨と背骨はギシギシと軋み、肺が爆発しそうに苦しい。諦めかけた魂とは裏腹に、肉体はまだ、その剛腕から逃れるため必死でもがいていた。

「離し・・・」

「爽っ!」

 両腕を掴まれたまま、今度は体が反り返るほど勢いよく引き離された。肺に湿った空気が入り込んだ途端、爽は激しく咽せた。

「このバカ!馬鹿野郎!!」

    いつしか蝉は鳴き止み、暗闇に雨音が響いていた。    

    眩暈を覚えながらも、目の前に爽のよく知る顔があった。雨に濡れた髪が額に張り付き、眉間に深く皺を寄せた、それは確かに有馬だった。

「・・・なんで?」

 覚醒しかけているとは言え、未だ半身は悪夢の深淵に立っている爽は、グニャグニャと頼りなく揺れていた。

「しっかりしろ!」

「有ちゃん・・・ほんもの?」

「まだおかしなこと言ってんのか?・・・もう一発殴るか。」

 有馬が右手を振り上げる。その姿が、昼間の理紀と重なった。ここはあの現実の続きだ。

「!!」

 咄嗟に防御の姿勢を取る。硬直した身体に雨が冷たい。体のあちこちが痛い。喉もカラカラだ。急激に戻って来る感覚に、爽は狼狽えた。

「何・・・これ・・・。」

 爽の頭を鷲掴み、力強い視線で爽の瞳の奥を覗き込む。有馬はそこに僅かに灯った光を認めると、深く吐息した。

「戻ってきたな!?」

    有馬はそのまま呆然としている爽を引き摺って、渡り廊下の屋根下に入ると、非常灯に照らされた仄暗い床に座らせた。二人とも頭から爪先までずぶ濡れだった。

 髪や服が肌に張り付いて気持ちが悪く、体から流れ落ちた雨が床のコンクリートを濡らし、体温を奪っていく。まだ脳が痺れたような感覚に、爽は何もできないまま座り込んでいた。

「ちょっと待ってろ。」

 そう言って、有馬が脱いだTシャツを硬く搾ると、驚くほど水が滴り落ちる。

「これで拭け。」

    と、飛沫を散らしたシャツを投げて寄越された爽は、言われるがままノロノロと頭を拭きながら、有馬を見ていた。 

 太い首、広い肩、筋張って陽に焼けた腕。腹は綺麗に削げていて体格がいい。健康に成長した大人の身体だ。爽は見惚れていたことに気付くと、そのことを誤魔化すように下を向いて髪を拭き続けた。何故だか急に自分のなかに沸き起こった衝動があったのだ。

(今のは何だ?罪悪感・・・いや違う、もっと)

「お前もそれ脱いどけ。」

 不意を突かれて心臓が跳ね上がる音がした。化学変化のようなその衝動を、見透かされたのかと爽は慌てた。

「えっ・・・いい。」

「いいじゃねえ。風邪引くから脱いで乾かせって言ってんだ。」

 有馬は、尻のポケットを探ったが、タバコが濡れているのが分かると舌打ちをした。クシャクシャになったパッケージから1本だけイケそうな煙草をつまみ出すと、なんとか火を付けようとライターをカチカチ鳴らし続けている。

 爽は、気後れしながらも胸元を探ると、理紀にボタンを千切られたシャツから、薄く貧弱な胸板が丸見えになっていたことに気付いた。

「無理・・・。」

 有馬のそれとあまりに違う自分の体に、猛烈な劣等感と羞恥心を覚えた爽は必死になって拒否した。しかし有馬はそんな爽を「脱げッ!」と一喝し、あっという間に濡れたパジャマを剥ぎ取ると、

「ふん、俺に抵抗しようなんて二十年早え。」

    そう言って、やっと火が点いたタバコの煙を満足そうに吐き出した。 

    真夏とはいえ、真夜中に下着一枚の姿ではどうにもならない。おまけに肌寒い。小さなくしゃみが暗闇に響くと、青白い胸の上で黒珠の連なりが踊って音をたてる。あんなにも人目から避けてきたロザリオが、隠す布一枚さえない状況では膝を抱えてしゃがみこむしか策は無く、爽は情けなくて泣けてきた。   

    遠ざかった雷雲は、未だゴロゴロと低く轟いている。雨に煙る軒下で小さく丸まった爽の鼻先を、不意にタバコの香りがくすぐった。見ると有馬が長い脚を投げ出して背後に座り込んで来たのだ。。突然のことに爽は仰天し硬直した。

「お前いちいち面倒くせぇんだよ。急に吐いたり居なくなったり、訳の解らんこと喚いたりベソかいたり・・・やれハダカはムリとか寒みーとか。」

    有馬がわざと耳の横にフーッと煙を吐く。逃れようと身をよじると更に腕を絞めてくる。

 「恥ずかしいなら少しは鍛えろって。毎日家ん中ばっかにいるから、こんな生ッ白くてガリガリなんだよ。」

    有馬の胸と密着している背中が熱い。極度の緊張の中、爽は火を吹きそうな顔を膝に埋めて耐えた。心臓がかつて聞いたことがないほどの爆音を立てている。恥かしい。死にたい。

「窓架の方がまだ逞しいぞ。お前はもっとメシを食え!」

    有馬の悪ふざけは昔からだった。爽はよく泣かされて、その度に襟人がそれをたしなめた。それでも全く反省しない。有馬はどこまでも自由だ。

「ゆうちゃんお願いやめて・・・。」

 歯を食いしばって絞り出した声は情けないほど震えていた。有馬は怪訝そうに返事をすると、今度は真っ赤になった爽の耳を弄り始めた。

「へへ~ん、ヤダー。」

「耳はっ!!・・・◆★∞▼◉」

    相手が嫌がると、面白がって尚も弱点を責めてくる。爽はいい加減辟易したが抵抗も出来ない。しかし彼の度が過ぎた時には、必ず天の声が助けてくれることを、絶体絶命過ぎて忘れていた。

「ゆーう!」

 その声に気付いた有馬は手を挙げて答える。

「おー、やっと来た。遅ぇぞー!」

 天の声の主は、レインコートを着て大きなビニール製のバッグを抱え、真っ直ぐこちらへ走ってくる。息を切らして渡り廊下の屋根下に入ると、膨れたバッグを下ろしてフードを取った。肩で息をしながら、眼鏡のレンズに付いた水滴を拭う。

 目尻の下がった優しい目元と、キリッと上がった形のいい眉。

 眼鏡を戻すと、襟人は有馬たちの状況を見て呆れたように言った。

「君たちは何をしているの?」

「何って、こいつが寒みーってゆうから。」

「い、言ってない。」

「だからって、こんな薄暗いところで、半裸の男同士が身を寄せ合って何なんだ。」

「お仕置きだよ。なあ?」

 有馬の長い手と脚がギュッと体を締めてしてきたので、爽は思わず変な声が出てしまった。

「どうせまた、爽を苛めてたんだろ。いやらしい!」

 襟人は、吐き捨てるように言って、有馬の肩を蹴り飛ばした。

 有馬がブツブツ文句を言いながら離れていっても、限界を超えた爽は顔を伏せたままだった。襟人はテキパキと持ってきたバッグを探り、

「話は後で聞くから、早く着替えちゃいな。」

 身を屈めながら、柔軟剤の匂いのするタオルと暖かい着替えをそっと手渡してきた。襟人の気遣いに、いろいろな緊張から開放された爽の涙腺は決壊した。慙死の思いに駆られる状況であったが、どうしても溢れる涙は止まらなかった。

 襟人は溜め息を吐いて、しゃくりあげる爽の頭に手を乗せた。何も言わずそのまま濡れた髪を撫でる襟人の手は少し冷えていた。

第12話

 夢を見ている。

    先を行く白い傘を追い掛けて、長い坂道を下る。雨がゴボゴボと音を立てて流れ込む排水溝を避けて、左に折れると大通りに出た。

 住宅街に人気は無く、民家の明かりも皆落ちている。

 白い傘は雨に滲んだ街頭の明かりを受けて、浮かんだり消えたり。ただ濡れたアスファルトの感触を感じながら、引かれるように後を追っていた。

 通っていた公立中学校。白い校舎が雨に煙って巨大な要塞の様に見える。

 濡れた鉄扉によじ登り、門の内側に飛び降りる。息が切れてもまるで構わなかった。鉄条網で掌と足首に掻き傷ができて血が出たが痛みは感じなかった。

    校内は雨の音に包まれて、世界から隔離されたように心細く、そして静かだった。

 

 いつもの怖い夢。

    白い傘はいつの間にか姿を消して、独り真っ暗な何も無い空間に取り残された。ぬかるんだ校庭に、錆びたゴールポストが巨人の様に佇んでいる。

 白い傘を探して辺りを見回すと、遠くの空に細く光が走るのが見えた。

 まだ遠い稲妻。雨の粒がパタパタと顔に当たる。掌で避けながら校舎の屋上を眺めると、そこに彼女がいた。

 

 

 校門の桜の下で、迎えの車をが来るのを待っていた時だった。いきなり名前を呼ばれた爽は驚いて顔を上げた。

 卒業式が終わって、クラスメイトたちは写真を撮ったり、連絡先を交換したりしている。彼らはこれからカラオケやファミレスへ繰り出すのだろう。爽はと言うと、クラス委員に誘われはしたが早々に断ってしまった。

    だから、真っ直ぐ家に帰るつもりでいたのに、突然、数人の女子生徒に呼び止められ取り巻かれたのだ。

「先輩、この子と写真撮ったげてよぉ。」

    卒業を祝う言葉もなく、やけに馴れ馴れしく下級生たちがタメ口で話しかけてくる。勿論そんなことは初めてで、爽は物凄く狼狽えた。そもそも人付き合いが苦手だったし、中学の三年間、女子と話したことは数える程だったというのに。そのやたらにハイテンションな下級生たちの後ろに、小柄で大人しそうな女子生徒がいた。長い黒髪をお下げにして、つくりものの様な綺麗な顔はやや青冷めて、薄い唇を固く結んでいる。

「ほらゆり、あんたからも頼みなよぉ。」

    取り巻きの生徒たちはどこまでも軽い調子で、彼女の手を引いて爽の前まで引っ張って来た。「ゆり」と呼ばれた彼女は、自分のスマートフォンを握り締め俯いたままだ。この騒がしい生徒たちは彼女の友達だろうか。まるでお人形のような彼女からは、取り巻きの生徒たちと毛色の違う、育ちの良さが感じられる。そのせいか、何か浮世離れして見えた。それとも、彼女は虐められていて、罰ゲームでもやらされているんだろうか。

「ほらぁ、センパイ困ってんじゃん!」

 早く早くと責め立てられて爽は本当に困っていた。父が迎えに来る前に、兎に角この訳の分からない状況から開放されたい。

「あの、困るんですけど。」

    と、勇気を振り絞って言った爽の声は、超音波のような騒ぎ声に虚しく掻き消されてしまった。

    周りに押し出されるように隣に立った彼女と初めて目が合った瞬間、何故だか爽はその視線から逃れられなくなった。二人が見つめ合ったたまま視線を外さないので、取り巻きたちは狂ったように盛り上がり、彼女の手からスマホを奪って間合いを詰めて来る。すると困っているようにもじもじとしていた彼女は、にわかに白い歯が見えるほどニイと笑い、爽に腕を絡めてきたのだ。

 突然の強引なアプローチに爽は驚愕し身をよじった。望まない好意は暴力に似ている。刃物を突き付けられているかのような息苦しい心地で、

「あ、あの。」

と、喉の奥からようやく声を絞り出すと、彼女は細い肩を震わせて笑った。揺れた髪の香りが鼻腔をくすぐる。自分と同じくらいの背丈で細身に見えたが、腕に押し付けられた胸の感触は柔らかかった。

    爽は不可解な嫌悪感に囚われたまま、何枚も写真を撮られた。やがて、桜の花弁が舞う路の向こうから父の車が向かってくるのが見えたので、爽は心底ホッとした。

「も、もう行かないと・・・」

    すると、ゆりは爽の制服の第二ボタンにそっと触れ、

「欲しい」

    と言った。頬を紅潮させ尚もねだる彼女とまた目が合った。爽はその黒目がちで濡れたように輝く瞳を美しいと思い、同時に恐ろしいと感じた。まるで操られるように承諾すると、ゆりは手を掛けたボタンを細い指で引き千切ったのだった。

    まるで、魂の尻尾を毟り取られたみたいだった。心臓が凍ったように冷たくなっていくのを感じて、爽は逃げるように父の車の後部座席に乗り込んだ。

 「お?何だ、具合悪いのか?」

 車に乗るや否や吸入器を口にあてがう息子を見て父が聞いてきた。

「どうしたぁ、緊張しちゃったかぁ?」

「してない。」

「またまたぁ、見てたぞぉ。女の子に囲まれてたじゃないかぁ。やるなあ、お前~。ケケケッ。」

 後輩に第二ボタンをねだられる、なんて卒業式のお約束など廃れたと思っていた。だから、まさか自分がその場面に遭遇するとは想像すらしていなかった。閉口した爽は心の中で舌打ちをする。

「で?どの娘?まさか全部じゃないだろ?」

 父のウザさにドッと疲労を感じて、わざと大きくため息をついてから

「別に。」

    と吐き捨てるように言った。しかし、子供の恋愛事情に関する親の興味はキリがない。

「あの、髪の長い子かぁ?腕なんか組んで・・・」

 瞬間、爽は腕に残る感触を思い出してゾッとした。

「もう、ホントやめて!気持ち悪い!」

「ちぇっ。」

 自分が感じるこの嫌悪感は何なのか。その事実をまだ誰にも、聖名にさえ打ち明けていない。正直、自分でもまだなぜなのか判らないのだ。考えると時々苦しくなる。喘息とは違う息苦しさだ。

「家に着くまで、少し眠ってもいい?」

「おう。お疲れさん。」

 爽は後部座席のシートにパタンと横になった。心地いい揺れに身を任せ目を閉じると、微睡みはすぐにやって来たが、瞼に彼女の瞳が浮かびハッと目覚める。

「卒業おめでとう。」

    多分、呪いだったんだと、今になって思う。

    父の言葉に再び目を閉じ、それからずっと、長くて恐い夢を見続けている。

 

 

「この頃ずっと誰かに見られてる気がする。」

   そう打ち明けた爽は、自意識過剰な自分を恥じて俯いていた。

「やだ、それストーカーじゃない?」

    聖名は期間限定のサクラフルフラペチーノを飲みながら、向かいの席から身を乗り出してきた。ストーカーという言葉はよく耳にしたが自分のこととなると途端に真実味を帯びてくる。

「爽、そのこと誰かに相談したの?」

俯いたまま首を振る爽は、言わなきゃよかったと後悔していた。

「いや、気のせいかも知れないし。やっぱいい、ごめん。」

    しかし、ずっと感じていた視線は気のせいであってはくれず、月が変わるといよいよ後を付けらるようになっていた。爽は最近外に出るときは必ずマスクをするようにしている。表向き花粉症だからということにしているが、顔が隠れていると落ち着くと言うのが本音だ。クラスには同じ中学出身の生徒もいたが、一人でいることが多い爽は一緒に帰る友人もいなかったので、得体の知れないストーカーに自宅を知られないよう学校が終わると毎日電車を逆方向へ一駅乗り、そこから引き返すようにしていた。

新生活に馴染めず、心身の疲れも溜まり、爽は学校を休みがちになった。

3日ぶりに登校すると、上履きが無くなっていた。

  いくら目立たないように息を殺して生きていても、こういうことはまま起こる。これまでもタチの悪い奴等に目を付けられて虐められることはあった。大抵の相手は暴力で従わせようとするのだが、今回は様子が違った。爽にはそれが虐めではなくストーカーが自分との距離を詰めてきている、自分はこんなにそばに居るぞと主張を始めたように思えた。

 

「はぁ?何が無くなったって?」

「だから・・・た、体操着・・・」

「体操着!」

  聖名が大声を出すので、爽は慌てて辺りを見回した。

「何それイジメ?ヘンタイ?」

「だから、大きい、声、大きいって。」

  爽の心配など御構い無しに、憤慨した聖名は腕を組んで鼻息を荒くした。

「ちょっと、それ誰かに言った?てゆうかケーサツに届けなきゃ!」

「いい、いいから・・・」

「何がいいのさ!全然いくないよね!」

「どうせ俺、体育は殆ど見学だし、1、2回しか着てないし。」

「そーゆー問題じゃないよね!?だって爽、今月に入っていくつ盗られた?」

  聖名に詰問され、爽は無くなったものを数えてみる。指を折るごとに次第に項垂れていく爽の頭を見ながら、

「流石に気持ち悪いっしょ。」

  聖名の言葉に同意せざるを得ない爽は、なんだか申し訳ない気持ちになった。

「ね、あのストーカー、まだ続いてるの?」

  ギクリとしたのが分かったのか聖名は深いため息をついた。

「爽が言わないでって言うからりっくんには言ってないけど、せめてガッコには言った方がいいよ。イジメじゃないなら尚更。だって部外者が入って来てるってことでしょ、セキュリティガバガバじゃん。」

  自分の危機感の無さに背筋が寒くなった爽は、クラス担任にだけ相談することにした。予想していたことだが、担任は先ずイジメではないかと疑った。それは自分の見た目が与える先入観であることも承知していたが、やはりガッカリする。イジメであれば必ずそこには悪意があり、イジメられる側がその悪意を認識していなければ成立しない。爽は入学してから誰かに悪意ある態度を取られたことは無かった。でも、だからこそ今回の得体の知れない「好意」が恐ろしくて堪らなかったのである。

 しかし幸いにも、学校に相談してまもなく物盗りはパタリと止んだ。ほっとしたのも束の間、不安定な気圧が自律神経を乱し、爽は再び休みがちになっていた。

    長雨の続くある日、微熱に火照った額を冷やすように窓もたれると、庭の紫陽花の向こうに白い傘が揺れているのが見えた。誰かを待っているようにその場所を動かない傘は、それから毎日決まった時間に現れて去って行く。何日かして体調が戻ったある朝、窓を開けたときチカッと光が爽の虹彩を刺した。反射的に目を瞑ったがその時の残像を脳がリプレイする。それは戦慄する映像だった。

    彼女だ。

自分にカメラを向け、踵を返して走り去って行く。長い黒髪が揺れる。

それは「ゆり」だった。

(家を知られた!)

咄嗟に窓下に座り込み、カーテンを閉めた。心拍の急上昇を感じながらこれまでの不可解な「好意」を思い出してみる。あの日、桜の樹の下でかけられた呪いを、爽は今ハッキリと自覚した。

彼女の手には今もまだしっかりと、自分の魂の尻尾が握られていると。

 

    梅雨前線が日本列島を過ぎ去るまで殆ど登校できなかった爽が、再び教室に戻って来るとクラスメイトの様子が変わっていた。衣替えをして夏服に身を包んだ彼らは健康で溌剌として、その眩しさに気後れする。授業も一人だけ遅れてしまったので、夏休みに補習を受けることになってしまった。親切なクラス委員長が、学期末テストの心配をしてノートを見せてくれたりもしたが、最早チンプンカンプンだったので、期末テストは早々に諦めた。

    授業後担任に呼ばれた爽が職員室に顔を出すと、そこに懐かしい顔があった。中学三年生の時の担任、志水である。彼は元教え子の顔を見ると困ったような笑顔を見せ、爽を校外へ連れ出した。

    外はもう夏の日差しである。

 

    補習を終えて帰宅すると、自宅前に一台の白いセダンが停まっていた。爽は横付けされた高級車を避けて門扉を潜った。陽は長く夕方と言っても未だ明るい。恐らく晴三郎が夕飯の支度をしているところだろう。今日は一段と暑くて疲れた。あまり食欲もないから夕飯の前にシャワーを浴びて少し眠りたい、ぼんやりと考えながらドアを開けると、玄関に見慣れない男女の靴が揃えてある。爽が訝しんでいると、リビングの方から声が響いてきた。明らかに怒気を含むその声に、爽は急いで靴を脱ぎ、リビングのドアに耳を近付けると、激昂する男の声とヒステリックな女の声が、乱暴な足音と共に近付いて来た。驚いてドアから身を引くと、運悪く声の主と思われる男女がドアの向こうから現れ、爽と鉢合わせになった。

    50代程の男は恰幅が良く白髪混じりの頭髪を撫でつけ、如何にも上等なスーツを着ていた。後から来た女がアッと声を上げ、身を乗り出すようにして爽の顔を凝視するとヒステリックに叫んだ。

「写真見ましたもの、間違いないわ!」

「貴様よくもうちの娘に・・・!」 

   男は血走った目で爽を見下ろすと、いきなり掴みかかってきた。

「このクズ野郎!」

   ギラギラと眼光は鋭く、怒りで紅潮した頬骨を震わせていた。突然の恐怖に身が竦んでいた爽は、その怒声だけで卒倒しそうになった。

「こんなガキみたいな面した奴が・・・!自分が何をしたか分かってんのか!」

   掴まれた肩に指が食い込み、思わず声を上げると相手は尚も激しく揺さぶって来る。訳が分からないまま突き飛ばされ床に転がった爽は、他人の一方的な憤怒や嫌悪が、こんなにも残酷で恐ろしいものだと初めて知った。この時の凶器の様な言葉の一つ一つを覚えている。記憶はしているが未だ15歳の彼にとって思い出すには余りに辛い体験だった。

    家長である正一郎が不在だったのが彼らを助長させたのであろう。暴言が吐き散らかされた玄関に、和二郎が塩を撒いている。晴三郎は呆然とする爽を気遣い部屋まで送ってくれた。そのままベッドに潜り込む。そうする以外何も出来なかったからだ。胸に絡みつく憎悪の残骸に心を絞られ、泥に沈むような眠りに引きずり込まれるたび、理不尽で耐え難い言葉の数々が耳に蘇る。そんなことを繰り返し、いつしか疲れ果てて、爽は眠っていた。

 

「あのね、それはナキネイリってゆうんだよ!」

    覚えたての言葉を使って、聖名は悦に入っている。一方的に言葉の暴力のサンドバッグにされ、すっかり参ってしまった爽を外して、大人たちは今後の対応についてあれこれ話し合っていた。難しい話は置いておいても、経緯を聞いた聖名としてはとても黙っていられなかったのだ。

「大体、爽なんてどーやったらニンシンするかなんてことさえ知らないんだから!」

「イヤイヤ、流石にそれは無いだろう・・・」

    自分の息子が如何に発育が遅れていようとも、そこまで未成熟であるはずはないと思いたい和二郎だった。反論してみたものの確信は無い。そう言われれば、彼からそういったことを聞かれたことは無かったし、異性への興味を感じさせるような節は微塵も無かったではないか。長男と比べればその差は明白である。これは想像以上に初心なのではないか。和二郎は暫し放心していた。仕事にかまけて息子の性教育を怠ってしまった。理紀が健全な教育をしたとどうして分かるものか。

(もしかして、本当に孕ませちまったとか・・・無いよな。)

「わっくん、どうかした?さっきから顔がおかしいよ?」

    向かいで晴三郎が心配そうに眉根を寄せて聞いてきた。

 

    灼けたコンクリートの校舎に向日葵の影がぐんぐん長くなる午後、家の最寄駅で季節限定のマンゴーフラペチーノをひと口吸い込み、聖名は隣に立つ爽の顔を覗き込んだ。

「黙ってちゃ分かんないよ。わざわざ待ってたの、何で?」

爽の両手はずっと鞄の肩掛けを握っている。呼び出した相手の顔を見ようともしないでずっと自分の爪先ばかり見つめていた。爽が人一倍繊細であることを知っているが、自分に求められていることが分からず聖名は途方に暮れていた。

    産まれたての生きものが、一人で立ち上がろうとしている。心許ない足取りにハラハラして、手を貸してはいけないと判っていても、どうにも庇護欲を駆り立てられる。結局爽が口を開いたのは、聖名が咥えたストローが派手な音を立てた後だった。

「・・・て欲しい。」

「なぁに?聞こえない。」

「一っ・・・緒に、来てっ・・・欲しい。」

    必死に絞り出した声があまりにも頼りなかったので、聖名は思わず吹き出してしまった。さっきまで青い顔をして俯いていた爽が、今度は耳まで赤くしてこちらを見ている。その困惑した顔が可笑しくて笑いはなかなか止まらなかった。

    その姿は、聖名に新しい気持ちを芽生えさせた。だから、今も彼が自分からどうして欲しいのか言い出すまで待っていた。正直、聖名は気分が良かった。それまで全て先回りして手を差し伸べていた実兄との依存関係を断ち切った爽が、初めて自分の意思で助けを求めて来たのが自分だったからだ。

    白い日傘をクルクルと回して二人は並んで再び歩き出す。行き先は四ヶ月前まで爽が通っていた中学校だった。

    この日、彼らに起きた事の詳細は家族皆が知っている。彼がどんな凄惨な光景を見たのか、とても耐えられるものではないことは容易にを想像できる程には。

 

 たった四ヶ月で終わった高校生活は、もう遠い昔のように感じる。

 新しい制服はクローゼットの奥に掛けられたまま、どうかこのまま無かったことにしてくれと息を潜めていた。

 

中庭

    僕は、どこかの中庭にある気持ちのいいテラスにいた。

    そこはとても静かで、硝子で出来た大きな鳥籠の形をしている。 

    僕はいつからここにいたのか、誰かを待っていたのか。

    ぼんやり考えても何もわからない。

    この場所に季節があるのかもわからない。そもそも何処の国なのかもわからない。硝子の外はただ広くて何も無い。緑の大地が延々と続いた先に、深い森があるのが見えた。 陽はまだ高く薄い雲がのんびりと浮かんでいる。風は凪いでいた。

    硝子の向こうばかり眺めていても何も変化が無いので、僕はテラスの中に目を向けた。   

    寒くもなく暑くもなく、外に出てみようにも入り口も出口も無い。ピカピカに磨かれた円形の、ヘリンボーンの床の中央に、真っ白なクロスを掛けた円卓が置かれ、四方にあめ色に光る猫脚椅子が四つ。僕は、その柔らかなブルービロードに金のボタンがあしらわれた椅子に腰を下ろし感触を味わった。そして、円卓の上に置かれた名前の知らない花に触れてみた。

    涙型の小さな青い花弁は驚くほど繊細で、壊してしまいそうで怖くなる。眺めるだけにしておいた方が良さそうだと思いそっと指を離すと、懐かしい香りがした。

    “懐かしい”?この気持ちは何だろう。

    何かを思い出しかけても、すぐに霞がかかったようにその何かは遠ざかって行く。誰かが、僕に考えることをさせないようにしているみたいだった。

 

    もうどのくらいこうしているんだっけ。

    僕は帰らなくていいのかな。

    僕はどこから来たんだっけ。

    テラスの外を眺めるとサラサラ雨が降っていた。

    硝子越しに眺める雨はちょっといい。

    今はまだここにいようと思う。

 

    いつのまにか、円卓には大きな銀のトレイが置かれ、その上に真っ白なティーセットが用意されていた。一人では飲み切れなさそうな大きな丸いティーポットには、シャンパンゴールドのティーコゼーが被せてある。その艶やかなサテン生地を撫でると、ほんのり温かかった。傍らに取っ手が華奢なティーカップが三つ伏せてあり、音符のように並ぶシルバーのデザートフォークを見つめて、僕は僕の他にもお客様が来るのかなと思った。

   

    大粒に膨らんだ雨がテラスの硝子を叩く音に、僕は滲んだ緑の先を見つめた。濃い緑の、そのずっと先の黒い森の方から、誰かがこちらに歩いてくるのが見えた。ポツンと白い傘が花のように揺れている。

    あれが「お客様」かしら。そう思って見つめていると、にわかに外が暗くなってきた。遠くの空にに稲妻が走り、まるでドラムロールのように近付いてくる音に合わせて雨粒は膨らみ、みるみるうちにオーケストラの様な嵐になった。

 

(入れて)

 

    黒い雲の中にチカチカと光が見えたとき、あんなに遠くにいた「お客様」が、硝子のすぐ向こうに立っていることに気付いた。

 

(入れて)

 

    僕は首を横に振った。入口が無いから入れてあげることが出来ない。

    その子はしばらくテラスの周りをグルグル回っていたけれど、何処にも入口が無いことが分かると硝子をドン、ドンと叩きはじめた。

    傘は雨に濡れて萎れた花の様になっていた。早く他に雨宿りの場所を探さないと今にも折れてしまいそうだった。

 

(入れて。入れてよう。)

 

    ジワリと冷たく湿った何かが背筋に触れた。

    僕は椅子から立ち上がって後ずさった。

 

(私も入りたい。私もそこがいい。)

 

    恐ろしくなってテーブルの下に逃げ込んだ。でも何故か、その子から視線をそらすことができない。テーブルクロスに身を隠しながら、ガラスに隔てられた外の様子を伺っていた。

    

(ずるい!ずるいぃ!)

 

    狂ったように硝子を叩くたび、萎れた白い傘が真っ赤に染まっていく。

    いや、傘の先から何かが溢れ出しているのだ。

    まるで血の様なもの。

    怒りの様な、恨みの様な、絶望の様なもの。

 

    溢れ出した赤い何かに全身が染まっても、彼女は硝子を叩くことをやめない。

    恐ろしさと悲しみで溢れそうになった僕は、何も聴かないように耳を塞ぎ、きつく目を閉じた。

 

第11話

 襖を開けると暗闇の中で障子もガラス戸も開け放たれたままだった。風雨が屋内に吹き込んで畳を濡らしている。和二郎は、布団の枕元に転がっていた吸入器を拾い上げ青ざめた顔で言った。

「あいつ、発作起こしたばかりなのに・・・!」

 二階から騒ぎを聞きつけて、襟人と窓架も下りてきた。頭を抱えてしゃがみこんだ理紀の肩にそっと手を置き、

「とにかく爽が行きそうなところを探そう。雨に打たれたら、また発作を起こすかもしれない。」

 襟人は落ち着いた声でそう言うと、布団に手を滑り込ませ探った。

「まだ暖かい。そう遠くへは行けないよ。」

 その言葉に皆直ぐに動き出す。襟人は二階のクローゼットから大きなビニール製のスポーツバッグを引っ張り出し、タオルを何枚も詰め込み始めた。晴三郎は仕舞い込んでいたレインコートや懐中電灯を用意した。正一郎と和二郎は早くも長靴を履いて、爽が行きそうな場所の目処をたてている。

「俺、ちょっと見てくるわ。見つけたら連絡する。」

    いつからいたのか、すれ違いざまに有馬はまるでコンビニに行く様にフラリと出て行った。

「えっえっ?探すって、何処・・・」

 と襟人が声を掛けた時には、既に有馬の姿はそこに無かった。

「おい!」

 閉じたドアに虚しく気持ちをぶつけて、襟人は慌ててレインコートを羽織ってバックを背負い、有馬の後を追おうとドアノブに手を掛けた。

「お前は窓架と家で待機。」

    正一郎の静止に思わず振り返った襟人は、反論しようと意気込んだが、

「有馬から連絡あったら使え。俺たちへの連絡は家の電話から窓架にさせろ。」

そう言うと、正一郎は襟人に車のキーを握らせた。ため息混じりに沈んだ声で返事をした襟人から、脱いだレインコートを受け取ると、正一郎は未だ動けずにいる理紀の胸に叩きつけた。

「しっかりしろ!誰もお前のせいだって言ってない。探すか、残るか、決めろ。」

    正一郎の声はよく通り、その言葉は理紀の胸と腹に響いた。レインコートを掴み取り顔を上げた理紀の決断は早かった。

「探す。」

「よし、俺と一緒に来い。和二郎と晴三郎は駅の方、俺と理紀は裏の方から回る。」

「寝間着に裸足で、傘も差してないんでしょ。かなり目立つよね。」

「通行人にも当たって情報収集してくれ。」

「深夜だし、ここら辺は駅に出る道だって人気は無いよ。」

「まだ、開いてるコンビニとかあるだろ。」

   ドアを開ければ大粒の雨が吹き込んでくる。そこから皆それぞれ声を掛け合い、二手に分かれ出て行った。

    深夜、俄かに慌ただしくなった玄関が再び静かになった。

    残された襟人は腕を組み小さく吐息した。用意した荷物を傍らに置いて玄関に腰を下ろす。窓架も隣に膝を抱えて座りこみ、同じように難しい顔をしている。

「爽にも困ったもんだな。」

「うん・・・。」

 窓架は、今日この玄関先で起こった大喧嘩のことを思い出していた。気恥ずかしくてなかなか話す気になれない。しばらく沈黙の突破口を探しあれこれ考えたが何も浮かばなかった。雨の音だけが変わらず響いている。

「浴衣な、僕も今日知ったんだ。」

ポツリと襟人が呟いたことで、少し場の空気が緩んだ気がした。救われた気分になった窓架は安心して途端に饒舌になる。

「あれ、二年前みんなでサイズ測りに行ったやつだよね。」

「そうだよ。やっぱり窓架は覚えてるんだな。有なんて全然だよ。」

 気恥ずかしい空気は紛れたが、襟人は目を閉じて切なそうに首を傾ける。

 晴三郎が聖名との約束を守るため、コツコツ自分で縫っていたこと。仕上げは知人の職人に頼み、今日出来上がりを知らせるメールがとどいたこと。そのことを氷川丸の前のバラ園でそっと教えられ、皆には内緒で取りに行ったこと。静かに、まるで雨音の様に話す襟人の声が心地よくて、窓架はついウトウトしそうになった。

「さわちゃん、早く見つかるといいねえ。」

「そうだな。」

 二人はまた黙って、玄関先でしばらく雨の音を聞いていた。


『また何か起こったらここに連絡してね。』

 

    唐突に、昼間聞いたキャラクターボイスが、窓架の耳に蘇った。

 窓架はスマートフォンを取り出して、紫の蝶をまじまじと見つめた。タップしたが最後、高額な金額を要求されたり、アダルトサイトにアクセスしてしまったり(それはちょっと興味あるが)しないだろうか。父の悲しむ顔と未知(主にエロ)への好奇心の狭間で心が揺れ動いたのは一瞬で、呆気なく好奇心に打ち負かされた彼の良心は、シャボン玉の如くフワフワと浮き上がり弾けて消えた。

『Machida Ditective Offece』

真ん中の単語の意味が分からなかったが、とりあえずオフィシャルHPと言ったところだろうか。
「・・・ゴメン、ちょっとトイレ。」

 窓架は難しい顔で画面を凝視したまま立ち上がり、小走りにトイレに入るとドアを背にしてもう一度食い入るように画面を見つめた。

 そこはオフィスの一室で、中央にテーブルとソファ、奥と手前にドアが一つずつ。ホンモノをそのままミニサイズにしたみたいなアニメーションで、少し待つと奥のドアから、ゴシックなベビードールに身を包み、枕を抱えたMDOのアバターが入室してきた。至極機嫌の悪そうな顔をしている。

『おこだよ!』

 アバターから吹き出しが飛び出して言う。音声は無い。窓架は自分側にある吹き出しの中に文字を打っていった。どうやらこれでチャットができるらしい。

「こんばんわ。」

『営業時間外なんだけど?』

「えー知らないし。ごめんなさい。」

『チッ。』

 アバターに舌打ちされた窓架はちょっとブルーになった。

「ええと、昼間の話、していいですか?」

『早速なんかあったんだ。』

「うん。さわちゃんがロザリオもってた。それで、りっくんと、あ、さわちゃんのお兄さんとロザリオのことで大喧嘩して、夜中飛び出した?みたいな。」

『何それ、単なる兄弟喧嘩じゃん!そんなことで起こしたのかい!』

    MDOのアバターは頭から湯気を出して怒り出した。その様子が面白いので、窓架が指で突いてみると、偶然なのかそういう仕様なのかMDOはキャッと短い悲鳴とともに転倒した。

『てめえふざけてんのか、寝るッ!』

    床に枕を叩きつけて地団駄を踏むと、MDOは奥のドアへ立ち去ろうとする。窓架は焦って呼び止めた。

「待って待ってごめんなさい。聞いて聞いてお願い。普通の兄弟喧嘩じゃなかったんだってば!」

『・・・どう、普通じゃなかったって?』

    引き留めることに必死で口走ったとは言え、急に具体的な回答を求められた窓架は言葉に詰まってしまった。でも喧嘩の様子を思い出してみても、やはり二人とも尋常ではなかった気がする。

「えっと、キレ方が?」

『何に対しての?』

    窓架は心に引っかかる何かが分からず唸った。

『二人の間には何があった?何を巡って争ってた?』

「ロザリオ・・・」

    ロザリオを隠し持っていた爽が許せなかった理紀。それを頑なに渡そうとしない爽を追い詰めた理紀。お前に関係ないと言った爽を殴った理紀。理紀の怒る理由は明白だった。でも、

「さわちゃん、なんであんなにロザリオを取られること、嫌がったんだろう。」

『それだ。』

    まるで、悪事を暴かれることに怯えているような、見られたくないものを必死で仕舞い込むような、そんな爽の素振りを思い返し、窓架は三度首を捻った。

『事の結び目は見えたな。じゃっ、あとはじっくり話し合いでもしてよ。あーねむ。』

    そう言ってあくびをすると、MDOは床の枕を拾ってドアの方へ歩き出した。

「話し合いって、その爽ちゃんが家出しちゃったんだってば!雨の中傘もささないで、裸足で飛び出して行方不明なんだよ?」

『何、そいつクスリでもやってんの?』

「そうなんだよ!ヤバいんだよ!だから連絡したんじゃん!」

『クスリって、ホントかよw』

「ホントだよ!発作起こしたばっかりなのに喘息のクスリも置いてっちゃって。そんな無茶なことするタイプじゃないのに、ねえどこ行ったと思う?」

『はあ?なんだその無茶振り。』

    必死に訴える窓架に、後ろ髪を引かれドアの前で立ち止まっていたMDOはしばし考えていたが、

『・・・ネクラな奴の行動パターンっつったら、自己嫌悪→自暴自棄。多分、喧嘩でアドレナリン出しまくったんだろうな。で今度は脳内にノルアドレナリンがドバドバ出てるんだろう。自己犠牲→自己満足のコースもあるかも。』

    MDOの絶望的な回答に窓架は仰天した。余程怒らせたのか単に性格が悪いのか、MDOはケタケタ笑っていた。

 不意にドアの向こうから着信音が聞こえた。

「はいっ・・・えっ、おいッ!有?ゆう!!~って、だから切るなよ!」

 慌てて窓架がトイレのドアをあけると、襟人が玄関から大きな声で呼び掛けてくる。

「窓架!有が今、爽らしい人影を見つけて後を追ってるらしい。あいつ一方的に切りやがって、その後出やしない。」

「ど、どこで?」

 急いで廊下を駆け戻ってきた窓架が、襟人の背中に尋ねると、

「中学校だ。爽の通ってた・・・いや、事故現場ってこと、なのかな。」

再び仰天した窓架を振り返り、襟人はポケットの中のキーを握りしめた。

「窓架は、すぐに父さんと晴三郎さんに連絡して。行ってくる。」

 玄関ドアを開けると雨脚はますます強く、生暖かい強風が吹きこんでくる。襟人は用意しておいたスポーツバッグと懐中電灯を持って出て行った。

 遠ざかる車のエンジン音は、雨風の音で瞬く間にかき消された。家の中にポツンと立ち尽くした窓架が、スマートフォンの中のチャットルームを見るとMDOの姿は無く、

『さわが一番行きたくないところを探してみろ』

 吹き出しの中の文字だけが残っていた。

 

 

第10話

    氷川正一郎が、その年の有馬記念で当てた配当金でこの家を建てたのは、かれこれ二十七年前だ。妻あきの「腹の子がこの馬が来ると腹を蹴る」という川柳のような気まぐれに付き合って買った馬券が万馬券に化け、マイホームを手に入れたのだった。

 以来、安易にも有馬と名付けられた長男は、図らずもがな強運に恵まれた。有馬記念の奇跡は伝説として広まり、「頼もしい長男」「地元名士の跡取り」「サラブレッド」などともてはやされたが、本人にその気概は全く無く、周囲が寄せる一切の期待とプレッシャーを跳ね除け(と言うよりも気付かず)誠にマイペースな男に成長した。行き場を失くした周囲の期待はというと、至極自然に弟の襟人へスライドし、何時しか有馬本人は「楽しい長男」「地元名士の跡取りの兄」「野生の馬」と呼ばれるようになった。

 現在に至って「有馬記念の奇跡」は、専ら正一郎の持ちネタとして宴の席で披露される程度のものになっていた。

 そんな氷川家長男は、自由にのびのびと放牧された生い立ちの為か、人として大切な機能を何処かの野っ原へ落としてきてしまった。

 しかし、先にも述べたが、彼は傑出した強運の持主だった。単なるラッキーと呼ぶべきかあるいはアンラッキーが彼を除けて通ると言うべきか。恐らく後者、それも除けるのではなく不運諸共、巨鯨の如く飲み込んでしまうといった印象である。大人にとって大切な空気を「読む」機能が無い代わりに、場の空気を「喰らう」機能を備えている。それが彼が極めて強い存在感を持つ理由だと言える。ただ、その機能がマイナスに作用する相手というものが必ず存在する。

 それが彼の実弟、襟人だった。

 しかしその点においても有馬に害は無く、一方的に襟人の不運が増すという感は否めないのだった。「ただいま~。」

 惨憺たる有様の氷川家の玄関に空気イーターが帰還した。有馬はその場に鞄を放り出すなり暢気な声で、襟人に「メシなに~?」と聞く。生憎その襟人は絶賛激おこ中である。

「知るかッ!」

 夕飯の献立を聞いただけで、かつてこんなに怒鳴られることがあっただろうか。この様に、有馬は自由すぎて時々地雷を踏むのだ(踏んだところで無傷だが)

「なんだよ、えりこ生理かよぉ〜。」

 三度襟人がキレかけると、今し方激しい兄弟喧嘩が繰り広げられた焼け野原を、有馬は裸足でぺたぺたと歩き出した。浴室へ向かいながら上半身は既に脱いでいる。

「じゃ晴さん?メシ何?」

「豚の生姜焼き・・・。」

「やった。風呂すぐ出るから、あっためといてー。」

「有!お前、廊下で脱ぐなって言ってるだろ!それから靴下!丸めて玄関に置きっぱなしにすんな!ちゃんと洗濯籠に入れろよ!」

 襟人が投げた靴下が当たる前に、ピシャッと浴室のドアは閉まった。

「ああ〜っイライラするぅ〜!」

    女の様にヒステリックに叫ぶ襟人とは対照的に、いつも通りの二人の様子に窓架はホッとして涙が引っ込んでしまった。

 

 

    理紀を部屋に放り込むと「もう寝ろ。」とだけ言って正一郎は行ってしまった。

 あれだけ大騒ぎしたのに説教もされず、訳も聞かれない。

(仕事では鬼のように被告を追及する立場にあると言うのに、家族に対しては対応が違いすぎないか。

 なんもかんもお見通しって訳なんだろうか。)

 理紀は無性に恥ずかしくなって、情けなくなって、叫びたくなって、ベッドに倒れ込みうつ伏せになった。

(あいつがあんな風になったのは、俺のせいだ。)

 別居の理由は父母の不仲によるものではなかった。

 だが、環境と経済状態とを鑑みて母は爽を連れて実家の名古屋に、父は理紀と二人で東京に長いこと離れて暮らした。兄弟はそれまで生活を共にしたことは無かった。

 母の仕事のスケジュールに合わせて、理紀と父は名古屋へ会いに出掛けた。爽が頻繁に体調を崩していたものだから、東京へはなかなか出てこられなかったのだ。

 祖母、つまり母の母と和二郎は性格の不一致で同居は有り得なかった。しかし祖母は利発な理紀には大きな期待を持っており、名古屋へ行くと和二郎をよそに理紀は優遇されていた。和二郎もそんな理紀を間に置いて義母との意思疎通を図っていたようだ。理紀は理紀で、緩衝材としての才能があることに自覚があった。更に、小、中学生と成績も良かった理紀は自信もあり、何の不満も無く、ただ生きることを楽しんでいた。病弱で人見知りな弟からの憧れの眼差しが心地良く、自分を慕う小さな存在が可愛くて仕方が無かった。理紀は兄である自分に酔っていたのだ。

 ところがである。

 母が亡くなって、父が祖父母から半ば強引に弟を引き取り、親子三人で暮らすようになって初めて、理紀は弟が他と違うことに気付く。

 爽は成長が遅く、未熟で弱い。

 それが生まれつきなのか病気によるものなのか知らないし、父も何も言わない。ただ、これからは自分が弟を守ってやらなくちゃいけないと強く思った。

 当時中学生だった理紀が、病弱な弟のサポートにどれだけ労苦を要したか、例を挙げればキリが無い。それはまるで育児だった。父は仕事に忙しく殆ど家に帰らない。勉強と家事と育児に振り回され、やってられっかと、正直逃げ出したい時もあった。

 しかしそんな兄の姿を見て、弟は怖くても苦しくても、悲しくても寂しくても、いつもギリギリまで我慢をするようになった。兄の重荷になりたくない。これ以上、父に負担を掛けたくない。我儘を言って家族の自由を奪いたくない。

 しかし、彼のその思いはいつも裏目に出た。限界を超えて我慢しすぎて、ある時いきなり糸が切れたみたいに身体は言うことを聞かなくなった。

 ー弟をそうさせたのは自分だ。

 ー兄をそうさせるのは自分だ。

 ーだからその後始末するのは自分の義務なのだ。

 ー俺が傍にいないと生きて行けない。

 ー兄を縛るのはもうやめたい。

 そう思っていた。

 

 モヤモヤする頭を振って半身を起こすと、ゴンと何かが床に落ちる音がした。

 昼間、病院のエレベーターで電源を切ってからずっとそのままにしていたことに気付き、急いでスマホの電源を入れる。喧嘩の最中の記憶はないが、尻のポケットにいれたままかなり激しく動いたはずだ。壊れてないか心配だ。

 理紀は無事に起動したスマートフォンの着信履歴を見て飛び起きた。

(ひさね!)

 直ぐににリダイヤルした相手は中々出てくれない。五度目のコール音で、

『はい。』

 ムッつりと怒気を含む声の主は、不動陽実である。

「ごめん、俺だけど。」

『おっそ。』

「スミマセン。電源切ってマシタことを今思い出しまして。」

 言いながら、理紀はベッドの上で正座する。快活で裏表の無い性格の彼女は、一度ヘソを曲げるととても面倒なことになる。付き合い始めてからそのことが身にしみている理紀は正座したまま90度頭を下げた。土下座である。

 高校二年生の夏、理紀は通っていた美術大学専門塾の、夏季集中講座で陽実と知り合った。

 関東県内の高校から集まった、美術大学を目指す仲間の中に、べらぼうに絵が上手い彼女がいた。イーゼルの陰にスッポリと埋もれてしまう小さな体に見合わない、とてもエネルギッシュな女子だった。

 理紀と陽実は直ぐに意気投合して、お互いのアドレスを交換し、同じ仲の良いグループで行動を共にするようになった。彼らは、いろいろあってめでたく同じ美大に合格し、いろいろあってめでたく付き合うことになり、今に至るわけだった。

「それで、何?」

『あぁ・・・今日、お墓参りだって言ってたから。どうだった?』

「え、どうもこうも墓参りだよ、普通の。」

『ふーん。』

「何も無いよ、何も・・・」

『りーくん?・・・何か、あった?』

 陽実は理紀の声のトーンから察したようだった。彼女の気づかいに理紀の心は僅かに揺れた。

『俺なんかどうなろうと、お前に関係ないだろ!』

 頭の中にリフレインする爽の声にムカッとする。

    弟を殴って落ち込んでいると、素直に吐き出せたら少しは楽になれるだろうか。しかし今はまだ誰かに許されてはいけないと、理紀はその思いをグッと飲み込んだ。

 急に黙り込んだので何度も陽実に呼ばれていたらしい。我に返った理紀は、何でもないよとできるだけ優しく言って電話を切った。大の字になって天井を見上げると、蹴られた腹が今になってジンと痛む。このままではとても眠れそうになかった。

 

 

「寝た?」

 晴三郎は、最後にリビングに姿を現した和二郎に聞いた。和二郎が疲れ切った顔で頷くと、晴三郎もホッと胸を撫で下ろした。何に対してもタフなこの男が、今回は相当まいっているように見える。

「お茶飲む?」

「ホントは酒が飲みたい気分だけどな。」

「お疲れさま。」

 和二郎は首を回しながらソファに腰を下ろす。久しぶりに兄弟三人でリビングテーブルを囲んだ。

「初めてこの家に全員が揃った夜も、こうやって僕らだけで話をしたね。」

「もう、五年も経つんだな。」

ひとつ屋根の下、遺族みんなで生活を共にしてやっと日常を取り戻して来た矢先、突然起こった事故により、またひとり家族を失うかもしれない危機に見舞われたのだ。

 十時過ぎから降り出した雨が勢いを増すに連れ、牛蛙の合唱も一段と声高になってきた。この辺りでは毎年聞こえる夏の風物詩だが年々数が増えうるさい程だ。しかし、今のこの沈黙をやり過ごすのにはありがたかった。

 

 日差しが厳しい夏の午後、聖名は白い日傘を差しており、その真上に落下した女子生徒は、内臓破裂で即死の状態だった。しかし直接の死因は全身強打によるものではなく、日傘の先に喉を貫通させたことによるものだった。おびただしい出血で血の海になった現場は直ぐに立ち入り禁止になり、救急車とパトカーのサイレンで騒然となった。

 警察から事故の連絡を受けた和二郎と晴三郎が病院に駆けつけたときには、聖名は全身を強く打って意識不明の重態、爽は心因性ストレスで昏睡状態だった。現場を目撃した志水教諭は、以下のように話している。

    生徒たちが学期末試験から解放され、通常授業にもどったある日、自身の携帯に担任しているクラスの女子生徒から連絡があった。

「先輩に直接会って謝罪をしたい。」

    交友範囲は広く無いものの人間関係は良好で、特定のグループからいじめにあっていた様子もなく、おとなしいが学業においては非常に優秀な生徒だった。しかしこの春から、ほとんど授業に出なくなり、五月に入ってからは完全に不登校になってしまっていた。

    志水教諭は何度か家庭訪問をして本人と話せる機会を窺っていたが、何故か彼女の両親は非協力的で、結局彼女と直接話すことはできずじまいだった。

    その彼女から「両親には秘密で」と、立会いを頼み込まれたのだ。しかも彼女の言う先輩とは昨年度自分が担任し、卒業していった生徒だった。自分のプライベートな連絡先を教えておいたことが功を奏したようだと、教諭は喜んで協力を申し出た。「先輩」は市内の高校に進学しており、早速志水教諭は彼女の意思を彼に伝えるためその高校に足を運んだ。彼は志水教諭との面会は快諾したが、申し出そのものは拒絶した。

    しかし円満な解決を望んでいる女子生徒のためを思った志水教諭は、その後何度も彼の説得を試みる。そして頑なだった彼が、ようやく「直接会って謝罪したい」と言う彼女の希望を承諾したのは、夏季休暇の直前だった。報告を聞いた女子生徒は安堵したようで「是非中学校で会いたい」と謝罪の場所を指定してきたと言う。志水教諭は、これが不登校を終わらせる機会になるかもしれないと期待を胸に抱いたと言う。

    約束の日。家族を連れ立って現れた爽と志水教諭は彼女の到着を待つこととなった。しかし約束の時間が過ぎても彼女は現れず、志水教諭は彼女の携帯に連絡取った。彼女は先輩と会うことを両親に気付かれそうになって遅れてしまったと詫び、「今向かっているから向日葵の花壇の前で待っていて欲しい」と言って電話を切った。

    3人が指定された場所に到着すると、今度は女子生徒の親から志水教諭宛に電話が入ったからと呼び戻出され、彼は職員室へトンボ帰りさせられた。しかし息急き切って電話に出た彼の耳に聞こえたのは、虚しい不通音であった。

    その電話を架けた本人は、花壇前で待つ爽と聖名の二十メートル頭上から現れた。

    志水教諭が職員室から戻るその僅か数分の間の出来事だった。

 

    事件後の事情聴取で両家にトラブルがあったことが発覚し、死亡した女子生徒の司法解剖が行われた。その結果女子生徒の両親が主張する妊娠は確認されず、性交の経験すらないことが証明される。当初「娘は被害者である」と激しく主張していた両親も、後日警察が押収した、彼女が所有していた通信機器等に保存された大量の隠し撮りから、全て虚言であったことを認めざるを得なかった。更に追い討ちをかけるように彼女の部屋のクローゼットには、盗品と思われる「先輩」の靴や衣類が隠されていたことが分かると、我が子ながらその異様な執着に戦慄を覚える結果となった。

    ここに来て初めて女子生徒の両親は、盗品と詫状らしき書面を送って寄越した。しかし、彼らが氷川家を訪れることは無く、後日しめやかに行われた女子生徒の葬儀に一人参列した和二郎は、線香で詫状を焼くという暴挙に出る。これが、関わった人間の心に修復不可能な程深い傷を負わせた事件の結末だった。

    当事者の二人はその夏の日に取り残されたまま、鬱々と時は流れて行った。

    真夜中の雨の中はこのまま永遠に続くのではないかと思われた。

 

「今日、午後4時26分。聖名のバイタルサインが著しく変動した時間だ。」

 ダイニングで喫煙しながら、正一郎は今日聖名の肉体に起きた現象について振り返った。聖名の主治医である沖崎医師曰く、非常に動揺している状態の体温や心拍数に近かった。その瞬間、彼の意識はどこにあり、何が起こっていたのか。

「沖崎先生にこんな質問をされたんだが。お前らどう思う?」

「何て?」

『聖名は今どこにいるか。』

 正一郎の問いに、和二郎も晴三郎も黙ってしまった。現実主義の長兄が、敢えてそんなことを聞いてくるなんて普通の答えでないことぐらい察しが付く。

「俺は即答だったぞ。」

「どうせ、そこ、とでも指差したんだろ。」

 和二郎が言い当てると、正一郎は全く動ぜずに「当たり前だろうが」と鼻息を荒くした。

「確かにな。でもまあ先生が仰るに、意識の源は脳だけじゃないかも、みたいなこと言う奴もいるんだと。『あなたは脳じゃない』ってさ。」

 今この時も、病院のベッドの上で眠る聖名の意識がそこに無いのなら、脳が意識の源でないのなら、聖名は、いったいどこにいると言うのだろう。来る日も来る日も、目覚めることを信じ続け、祈り続けた想いが向かう先はどこだと言うのだろう。

「そこで提案なんだがな。」

    そう話し始めた正一郎の「提案」に、和二郎も晴三郎も唖然とするしかなかった。

    かつて人々は、現代においては既に解明され常識となった「原因と結果」の結果だけを見て、神の奇跡または悪魔の魔法と呼んだ。しかし、そんな人類の歴史をかけて進化してきた現代医学においても、未だ解明できない原因と結果はごまんとある。おそらくそれは、肉体という物質と精神という非物質としてしか、人間を見ていないからである。

    原因を結果へ運ぶ「過程」、点と点を繋ぐ「線」、魂と魄を結ぶ「何か」。

「鳩が豆鉄砲食らったような顔をしてんな。」

    沖崎がしようとしているのは、意識が脳を源としないなら、意識と脳を結ぶ何かを生み出してみようと言うことだった。その何かとは、物質なのか状況なのか、何らかの条件付けによる結果なのか。

「あなたは脳じゃない・・・」

 呟いた晴三郎の脳裏に浮かんだのは、爽の胸に揺れていたロザリオだった。

「あの夢、もしかして聖名は探して欲しいんじゃなくて・・・。」

 彼の静かな水面のような瞳に波紋が揺らぐ。

「だから爽ちゃんのところにあったんだ。」

 その時、急に荒々しくリビングのドアが開いた。血相を変えた理紀が立っている。

「いない・・・!爽がいない・・・どこにもいない!」

第9話

「そうなのか、爽。」

 窓架がハッとして振り返ると、会話のどのあたりから聞いていたのか理紀が腕組みをして立っていた。

「ちょっと見せてみろ。」

「って、ない・・・」

 踵を返して二階へ上がろうとした爽の腕を、理紀は掴んで乱暴に引き戻した。階段を踏み外した爽が理紀にぶつかりそのまま揉み合いになった。力一杯爽の体を壁に叩き付けた理紀の顔は、これまで窓架が見たことも無い表情を浮かべていた。普段は見せない理紀の激しい一面を目の当たりにして、窓架はすっかり引いてしまっていた。自分が始めた爽への追及だったが単なる苛めのような気がしてきて、

「もうやめよう、りっくん」

 堪らず窓架は理紀の肩に手を置いた。が、その瞬間、ピリピリと電気の様な衝撃と共にその手は簡単に払いのけられてしまった。

「何にも隠してないなら見せてみろよッ!」

 そう叫んだ理紀は、必死に抵抗する爽の腕を引き剥がし、両手首を掴んで思い切り壁に押し付ける。

「窓架!!」

 名前を呼ばれた瞬間、まるで頭に雷が落ちたようだった。理紀は普段、窓架のことをふざけて「まどたん」などと呼ぶ。急に名前を呼ばれたことにも驚いたが、それよりも、自分が今何をしろと言われているかが解ってしまったのがショックだった。窓架は爽の襟のボタンに手を掛けた。

(さわちゃん、ごめん!)

瞬間、理紀は低く呻き声を上げ腹を押さえて床に吹っ飛び、窓架も押されて後ろへよろけた。爽はそこから逃れようと玄関の方へ駆け出したが、床へ転がったペットボトルに躓いて横倒しになった。

「このやろっ・・・!」

 咳込みながら叫んだ理紀が馬乗りになって、暴れる爽の胸ぐらを掴んで怒鳴る。

「てめぇいつまでもウジウジしやがって!!どんだけ周りに心配掛けてるかわかってねえだろ!!」

胸ぐらを掴んだまま激しく揺さぶり、痛がる爽の後頭部を床にガンガン打ち付ける。理紀は腹への一蹴で完全にキレてしまっていた。 

「関係ないだろ!!」

「やめてよ・・・二人とも・・・」

 窓架は二人の変貌に足がすくんで動けなくなっていた。

「ああそうか、そうだよな!!こっちが勝手に心配してるだけだもんな!」

「俺なんか、どうなろうと、お前に関係ないだろ!!」

 あっと叫ぶ間もなく、理紀の拳が頬を殴りつけた。爽の唇が切れて血が飛ぶ。

「だめだ!」

咄嗟に理紀の腕に組み付いた窓架だったが、呆気なく突き飛ばされてしまった。

「てめぇふざけんなよ!!」

理紀が爽の襟を掴んで力任せに左右へ引く。ビッと千切れる音がしてボタンが弾け飛んだ。

三人とも、しばらく互いの息遣いだけを聞いていた。

理紀も窓架も、上下する爽の胸の上に金色の十字架が光っているのを見た。

見間違える筈も無く、それは聖名のロザリオだった。

「ちょっと君たち、何を騒いでんの。」

 リビングへ続くドアの向こうから声が聞こえてきた。ドアが開いて不機嫌そうな襟人の顔が覗く。

「ご近所さんの迷惑に・・・」

 修羅場に居合わせた襟人は、ぐっと言葉を飲み込んで状況の理解をしようとしている。

「・・・どうした!?」

 理紀は肩で息をしながらロザリオに手を伸ばす。 すると観念したようにぐったりしていた爽が突然、金切り声を上げた。そして最後の力を振り絞るように、身をよじって理紀の下から逃れようとめちゃくちゃに暴れ出す。窓架も襟人も、動転の余り声を掛けることすらできなかった。その尋常でない声を聞いて、リビングから父たちが駆けつける。

「このクソガキっ!」

 和二郎は、泣き叫ぶ弟の頭を押さえつけ、どうにかしてロザリオを取り上げようとする理紀の腕を引き剥がそうとしたが、最早息子の力には敵わずビクともしなかった。かつてこんなに激しい喧嘩をする二人を見たことがなかった和二郎は、正直どうして良いか分からず、夢中で息子の腕に組み付いていた。

「理紀っ、落ち着けって、手を離せ!」

「邪魔すんなっ、くそっ!」

 手を払った勢いで和二郎の眼鏡が飛んだ。立ち尽くす襟人の足元まで転がってきた眼鏡を、晴三郎が素早く拾い上げる。目の下が切れて血が頬を伝う和二郎を見て、思わず駆け寄ろうとすると襟人に止められた。理紀の手に掴まれたままのロザリオは、ビンとしなり今にも千切れてしまいにそうだった。

「もう・・・っやめろってば!!」

 無我夢中の窓架が投げた大きな包みは理紀の横面を殴打して、勢いでそのまま中身が散乱してしまった。重い衝撃で後方へよろけた理紀を、正一郎が羽交い絞めにして素早く引き離すと、和二郎は激しく咳き込み始めた爽に駆け寄り背中を摩った。喘息の発作だった。

 「晴、頼む。」

    殴られたとき口腔内を切ったようで何度も血痰を吐き出させた和二郎は、晴三郎に爽の体を預けて吸入薬を取りに走った。晴三郎は襟人からタオルを受け取ると、血と汗と涙と鼻水と唾液まみれになった爽の顔を拭いてやった。ヒュッヒュッと僅かな呼吸しか出来ない苦しさに、歪めた顔がみるみる赤黒くなってくる。

 正一郎がやっと暴れるのを止めた猛獣の羽交い絞めを解くと、途端に理紀はその場にペタリと座り込んでしまった。正一郎が項垂れて呆然としている理紀の両肩に手を置くと小刻みに震えていた。

「ゆっくり、ゆっくりな。」

 和二郎に吸入器を当てがわれ、縋るように薬を吸い込む爽の傍らで、晴三郎はその胸で揺れるロザリオを静かな目で見つめていた。

 和二郎に抱えられた爽が奥の和室へ運ばれていくと、青ざめて唇を噛み締めた理紀は、正一郎に肩を抱かれて二階に連れて行かれた。爽を殴った拳は己の掌を抉るほどきつく握られたままだった。


 嵐が去った廊下は惨憺たる有様だった。

 鉄鼠、渋茶、竜胆色、濃藍、、紫紺、浅葱色、萌葱色、薄紅梅、山吹色。踏み荒らされた綿布の色が鮮やかに混ざり合う中で襟人が立ち尽くしていた。

「・・・おい。なんてことするんだ!」

 壁に背中が張り付いたように動けなくなった窓架は、目の前の惨状に何も言葉が見付からなかった。

 晴三郎はただ静かに、散乱した浴衣を回収して回る。

「襟人君、いいから。」

「よかぁないですよ!全ッ然よくない!皆好き勝手、自分のことばっかり!人の気持ちなんて誰も考えていやしない!」

    突然の襟人の剣幕に、喧嘩を止めるためとは言え、大切な物を台無しにしてしまったことに気付いた窓架は、しどろもどろになりながら弁解した。

「俺、二人を止めようと・・・ろ、ロザリオが。」

「マド、わかってるよ。」

 晴三郎は少し困ったように笑って、窓架の頭に手をのせた。

「ごめん・・・なさい・・・。」

「なんて顔してるの。大丈夫だよ。」

 (お父さんはどんな時だって笑って大丈夫って言う。)

 母が死んだ時もそうだった。窓架が突然髪を緑色に染めても、聖名が目を覚まさなくても、父は変わらず優しかった。

    (お父さんは優しい。悲しいくらい。)
 どんな時でも変わらない父の優しさに、窓架は心を痛めていた。

 

 

第8話

    先に帰宅していた晴三郎と襟人が夕飯の支度をしていた。正一郎や和二郎が風呂を済ませ、タオルを首から下げて美味しそうにビールを飲む。昼間飲んだ分はすべて汗で流れた。

「何か少し口に入れたら?」

 今まで和室で眠っていた爽が眩しそうな顔をしてリビングに現れた。

「入らない?」

「うん・・・いい。大丈夫。シャワー・・・する。」

「そっか。今日は暑くて疲れたもんね、汗を流したらまた寝ちゃうといいよ。一応、爽ちゃんの分ラップしておくから、後でおなかすいたらチンして食べなね。」

    晴三郎が心配そうに声を掛けると、爽は小さくうなづいてフラフラと浴室へ向かう。その背中に、

「シャワーが済んだらポカリを飲めよ!」

    と理紀が呼びかけても、そのまま無言で行ってしまった。

「何だよあいつ!返事ぐらいできねえのかよ!」

 わざと聞こえるように不満をぶつけると、理紀は夕飯を頬張り始めた。


 「うるさいんだよ、いちいち・・・」

 ムスッとして脱衣所に入った爽は、脱いだシャツを丸めて乱暴に脱衣かごへ投げ込んだ。

    洗面台の鏡に虚ろな視線を向けると、正視に堪えないほど憔悴している自分の姿に少し驚いた。

 自分の身体が丈夫にできていないことは嫌になるほどわかっている。病気ばかりしてるから、他人より未熟で、今年16にもなるのにまるきり子供の身体だ。狭い肩、簡単に折られそうに細い首。いつまで経っても筋っぽくならない腕。小さい腰と尻、脇も脛も体毛が薄くて生白い。これまでも学校で、他人より発育が遅れているせいでからかわれることも多かった。恥ずかしくてノースリーブや膝丈のパンツが穿けなくなった。水泳の授業などはトラウマの域だ。

 伸びすぎた髪と同じく鬱陶しい思い出も振り払いたくて、爽はブルブルと頭を振った。とたんにさっきの兄への態度が子供っぽく思えて自己嫌悪が込み上げた。

 その薄い胸板に、黒く光る十字架が揺れていた。


 電話が鳴った。

 受話器を上げた襟人の愛想の良い声が一瞬でトーンダウンする。

(有ちゃんだな。)

    人当たりの良い襟人がこの声を出す相手は一人しかいない。

 窓架は皿洗いをしながら会話に耳を傾ける。襟人がさっさと電話を切ろうとするので、慌てて濡れた手を差し出すと「ちゃんと手を拭きなさい。」とピシャリと言われた。窓架が着ているシャツで適当に拭い手を伸ばすと、襟人はがっかりした顔をして受話器を寄越した。

 受話器を耳に当てた瞬間、カチカチッと向こうでライターの音がする。

「もしもしっ、ゆうちゃん!?今日ねえ、あれから病院行ったけど、兄ちゃんトコには無かったよ!」

『お?おう。先ずはオマエ、お仕事お疲れ様でしただろうが。』

窓架の興奮した様子に面食らった有馬は少し声を荒げる。

「オシゴトオツカレサマデシタ!」

 フーッと煙を吐いて、有馬は満足そうに『よし。』と言った。

『で、何?何が無いって?』

「兄ちゃん、今日、一瞬起きそうになって」

『マジか!』

「うん。それでね、起きなかったから」

『お、おお・・・起きなかったんか。』

「だから、俺病室中探したんだけど、やっぱりロザリオ無かったよ。」

窓架の話はいつもこの調子である。彼の中ではキチンと整理されている様なのだが、いかんせん文脈が唐突なのである。聖名が意識を戻しかけたという一番の話の山場を、有馬は呆気なく早送りされた気分で着地点を見失った。

『ろざ、りお?』

あたふたとキーワードを探した結果、出た言葉がこれであった。

「昼間話したじゃん!兄ちゃんがロザリオ探してる夢の話!」

仕事上がりにニコチンを脳に巡らせている時にそんな話をされても彼に分かる訳はなかった。

『あーあれな。・・・ハハッ、何だっけ?』

「何だっけじゃねーよ。」

 窓架は息を吸うと一息に言った。

「あれからねその筋の人に聞いたらロザリオ探せって。」

『なんだその筋の人って。』

「今日知り合った人?」

『何で疑問形?』

「人かどうか自信ないから。抹茶クリームフラペチーノベティさん。」

『わからん!お前の話はまったくわからん!』

「あっあっ、待って切らないで!続き、続き聞いて!」

『もー何だよー早く帰って飯食いてえよー。』

 有馬は電波な末弟の訳のわからないお喋りにつき合わされて、遂に駄々っ子のような声を出した。

「あのね、俺たちは、兄ちゃんにエンカクソウサされているんだって、ゆうんだ、その人が。」

『どの人が?』

「だから!MD・・・」

 ボケたおじいさんと話しているみたいで、つい声が大きくなる。

『ああ、その筋の怪しい人な。』

「怪し・・・まあ、そうだけど。」

『何で?』

「兄ちゃんが、俺たちの夢を通じて、ロザリオ探すように仕向けているらしい。」

『ふうん。』

「ゆうちゃんどう思う?」

 どうって・・・と有馬は困ったように煙を吐いて、ふと薄暗がりで見た記憶が蘇る。

『なあ、ろざりおって、もしかして十字架のついたネックレスみたいなヤツ?』

「え、アクセサリーじゃないけど、確かに首に掛ければネックレスみたいかな・・・って、えじゃあ昼間は何なのか知らないで話してたの?今更かよ!」

『あーそれだったら爽がしてたぞ。』

 窓架は受話器を持ち直した。

「・・・えっ。」

『あれから具合どーよ?わじさんから聞いた?あいつ電車ん中でゲロッて大変だったんだぜぇ。』

「うん、知ってる・・・。それでいつ?いつ見たの?」

『えー・・・だから、ぶっ倒れてベッド運んで・・・こう、なんだ、首んとこのボタン外してたら、胸んとこにチラッと。』

「・・・見たのっ?」

『見たよ!?見るだろ普通!何だよ!』

「そっか!ありがと!」

 俺は、勢いよく受話器を置いた。切り際にかすかに『何だよ!?』という有馬の叫びを聞いた。


 窓架は爽が風呂から上がるまで、階段で膝を抱えて待っていた。やがてパジャマに着替えた爽が、頭にタオルを被ったまま、裸足でキッチンに入って行くのが見えた。少し待つと、500ミリリットルのペットボトルを持ってキッチンから出てきたが、階段に蹲る窓架の視線に気付くと、ぱっとタオルを被りなおして通り過ぎようとした。

「待って、さわちゃん。」

「・・・なに?」

 タオルの下から視線を合わせずに返事をする。

「あの、さ。気分どう?」

「ん、まあ・・・うん。」

 ペットボトルのふたを回しながらあやふやに答える爽がもどかしい。

「さっき、ゆうちゃんから電話があって、聞いたんだけど・・・」

「ごめん俺、もう寝るから・・・。」

「今日、突然西瓜が割れたじゃん。あの時の爽ちゃんの驚き方ハンパ無かったよね。アレだって、兄ちゃんがやってるって思ったからあんなに真っ青になったんじゃないの?」

「スイカ!!」

 咄嗟に、自分でもびっくりするくらいの大声が出た。爽が口を付けようとしていたペットボトルを取り落としそうになる。

「なに・・・?」

「今日、突然西瓜が割れたじゃん。あの時の爽ちゃんの驚き方ハンパ無かったよね。」

「ああ・・・」

    驚いて一瞬窓架の方を向いた顔が、大したリアクションも無く再びタオルの影に隠れた。

「アレって、兄ちゃんがやってるって思ったからあんなに真っ青になったんじゃないの?」

「別に、普通にびっくりしたから・・・」

何とも歯切れの悪い答えに、窓架は少し苛立ちを覚えた。そもそも彼は竹を割ったような性格で、爽はその真逆にいる。爽は度々窓架側にいる人間の嗜虐性を煽ることがある。今まではお互い聖名を挟んで均衡を保っていたのだ。

「昼間、兄ちゃんがロザリオを探してるって、探してって頼まれる夢見たって話したよね。」

窓架の心がざわざわと波打ち、残酷な愉悦を意識しつつあったがそれを止めようとはしなかった。

「爽ちゃんだけ、知らないって言ったじゃん?」

「覚えてない。関係ないし。」

「関係あるかもしれないじゃん!何でそう言い切れるの?ちょっとぐらいおかしいって思わない?」

「別に・・・偶然だろ。」

「ああそう、家族全員同じ夢見てるのが偶然なんだ?」

「偶然じゃなかったら何なんだよ。」

窓架は一つ大きく息を吸って答えた。

「兄ちゃんが、見せてる。」

笑われるかとも思ったが、爽は硬直していた。頭から被ったタオルを握り締める手が僅かに震えているのが分かった。これ程動揺すると思っていなかった窓架は確信した。

(何か隠してる)

ここで畳み掛けて聖名のロザリオを持ってるって白状させよう、窓架はそう決めた。

「俺、今日兄ちゃんの病室行って探してきたんだ。」

「・・・」

「無かったよ、どこにも。何であの時言わないかなぁ。」

「・・・だから、何を?」

それきりが爽が黙るので、窓架は焦れて核心を突くことにした。

「持ってるんでしょ。」

    青冷めた爽の肩が大きく揺れた。

「何のことか分かんない。」

 声が震えている。

「兄ちゃんのロザリオだよ!知ってるくせに何で嘘つくんだよ。」

 思わず叫んでいた。問い詰められた爽は唇をきゅっと結んで俯いている。

「じゃあ、有ちゃんの見間違いだっていうの?今日さわちゃんが電車で倒れたとき、首から下げてるの見たって。ゆうちゃんは、ちゃんと十字架がついたやつ見たって言ったよ?」

爽を追い詰めるつもりはなかったが、一方的な口撃になってしまった。窓架は一呼吸して、出来るだけ声を押さえて冷静に、押し黙ったままの爽に最後の鉄槌を下した。

「兄ちゃんのロザリオ返してよ。」