第12話

 夢を見ている。

    先を行く白い傘を追い掛けて、長い坂道を下る。雨がゴボゴボと音を立てて流れ込む排水溝を避けて、左に折れると大通りに出た。

 住宅街に人気は無く、民家の明かりも皆落ちている。

 白い傘は雨に滲んだ街頭の明かりを受けて、浮かんだり消えたり。ただ濡れたアスファルトの感触を感じながら、引かれるように後を追っていた。

 通っていた公立中学校。白い校舎が雨に煙って巨大な要塞の様に見える。

 濡れた鉄扉によじ登り、門の内側に飛び降りる。息が切れてもまるで構わなかった。鉄条網で掌と足首に掻き傷ができて血が出たが痛みは感じなかった。

    校内は雨の音に包まれて、世界から隔離されたように心細く、そして静かだった。

 

 いつもの怖い夢。

    白い傘はいつの間にか姿を消して、独り真っ暗な何も無い空間に取り残された。ぬかるんだ校庭に、錆びたゴールポストが巨人の様に佇んでいる。

 白い傘を探して辺りを見回すと、遠くの空に細く光が走るのが見えた。

 まだ遠い稲妻。雨の粒がパタパタと顔に当たる。掌で避けながら校舎の屋上を眺めると、そこに彼女がいた。

 

 

 校門の桜の下で、迎えの車をが来るのを待っていた時だった。いきなり名前を呼ばれた爽は驚いて顔を上げた。

 卒業式が終わって、クラスメイトたちは写真を撮ったり、連絡先を交換したりしている。彼らはこれからカラオケやファミレスへ繰り出すのだろう。爽はと言うと、クラス委員に誘われはしたが早々に断ってしまった。

    だから、真っ直ぐ家に帰るつもりでいたのに、突然、数人の女子生徒に呼び止められ取り巻かれたのだ。

「先輩、この子と写真撮ったげてよぉ。」

    卒業を祝う言葉もなく、やけに馴れ馴れしく下級生たちがタメ口で話しかけてくる。勿論そんなことは初めてで、爽は物凄く狼狽えた。そもそも人付き合いが苦手だったし、中学の三年間、女子と話したことは数える程だったというのに。そのやたらにハイテンションな下級生たちの後ろに、小柄で大人しそうな女子生徒がいた。長い黒髪をお下げにして、つくりものの様な綺麗な顔はやや青冷めて、薄い唇を固く結んでいる。

「ほらゆり、あんたからも頼みなよぉ。」

    取り巻きの生徒たちはどこまでも軽い調子で、彼女の手を引いて爽の前まで引っ張って来た。「ゆり」と呼ばれた彼女は、自分のスマートフォンを握り締め俯いたままだ。この騒がしい生徒たちは彼女の友達だろうか。まるでお人形のような彼女からは、取り巻きの生徒たちと毛色の違う、育ちの良さが感じられる。そのせいか、何か浮世離れして見えた。それとも、彼女は虐められていて、罰ゲームでもやらされているんだろうか。

「ほらぁ、センパイ困ってんじゃん!」

 早く早くと責め立てられて爽は本当に困っていた。父が迎えに来る前に、兎に角この訳の分からない状況から開放されたい。

「あの、困るんですけど。」

    と、勇気を振り絞って言った爽の声は、超音波のような騒ぎ声に虚しく掻き消されてしまった。

    周りに押し出されるように隣に立った彼女と初めて目が合った瞬間、何故だか爽はその視線から逃れられなくなった。二人が見つめ合ったたまま視線を外さないので、取り巻きたちは狂ったように盛り上がり、彼女の手からスマホを奪って間合いを詰めて来る。すると困っているようにもじもじとしていた彼女は、にわかに白い歯が見えるほどニイと笑い、爽に腕を絡めてきたのだ。

 突然の強引なアプローチに爽は驚愕し身をよじった。望まない好意は暴力に似ている。刃物を突き付けられているかのような息苦しい心地で、

「あ、あの。」

と、喉の奥からようやく声を絞り出すと、彼女は細い肩を震わせて笑った。揺れた髪の香りが鼻腔をくすぐる。自分と同じくらいの背丈で細身に見えたが、腕に押し付けられた胸の感触は柔らかかった。

    爽は不可解な嫌悪感に囚われたまま、何枚も写真を撮られた。やがて、桜の花弁が舞う路の向こうから父の車が向かってくるのが見えたので、爽は心底ホッとした。

「も、もう行かないと・・・」

    すると、ゆりは爽の制服の第二ボタンにそっと触れ、

「欲しい」

    と言った。頬を紅潮させ尚もねだる彼女とまた目が合った。爽はその黒目がちで濡れたように輝く瞳を美しいと思い、同時に恐ろしいと感じた。まるで操られるように承諾すると、ゆりは手を掛けたボタンを細い指で引き千切ったのだった。

    まるで、魂の尻尾を毟り取られたみたいだった。心臓が凍ったように冷たくなっていくのを感じて、爽は逃げるように父の車の後部座席に乗り込んだ。

 「お?何だ、具合悪いのか?」

 車に乗るや否や吸入器を口にあてがう息子を見て父が聞いてきた。

「どうしたぁ、緊張しちゃったかぁ?」

「してない。」

「またまたぁ、見てたぞぉ。女の子に囲まれてたじゃないかぁ。やるなあ、お前~。ケケケッ。」

 後輩に第二ボタンをねだられる、なんて卒業式のお約束など廃れたと思っていた。だから、まさか自分がその場面に遭遇するとは想像すらしていなかった。閉口した爽は心の中で舌打ちをする。

「で?どの娘?まさか全部じゃないだろ?」

 父のウザさにドッと疲労を感じて、わざと大きくため息をついてから

「別に。」

    と吐き捨てるように言った。しかし、子供の恋愛事情に関する親の興味はキリがない。

「あの、髪の長い子かぁ?腕なんか組んで・・・」

 瞬間、爽は腕に残る感触を思い出してゾッとした。

「もう、ホントやめて!気持ち悪い!」

「ちぇっ。」

 自分が感じるこの嫌悪感は何なのか。その事実をまだ誰にも、聖名にさえ打ち明けていない。正直、自分でもまだなぜなのか判らないのだ。考えると時々苦しくなる。喘息とは違う息苦しさだ。

「家に着くまで、少し眠ってもいい?」

「おう。お疲れさん。」

 爽は後部座席のシートにパタンと横になった。心地いい揺れに身を任せ目を閉じると、微睡みはすぐにやって来たが、瞼に彼女の瞳が浮かびハッと目覚める。

「卒業おめでとう。」

    多分、呪いだったんだと、今になって思う。

    父の言葉に再び目を閉じ、それからずっと、長くて恐い夢を見続けている。

 

 

「この頃ずっと誰かに見られてる気がする。」

   そう打ち明けた爽は、自意識過剰な自分を恥じて俯いていた。

「やだ、それストーカーじゃない?」

    聖名は期間限定のサクラフルフラペチーノを飲みながら、向かいの席から身を乗り出してきた。ストーカーという言葉はよく耳にしたが自分のこととなると途端に真実味を帯びてくる。

「爽、そのこと誰かに相談したの?」

俯いたまま首を振る爽は、言わなきゃよかったと後悔していた。

「いや、気のせいかも知れないし。やっぱいい、ごめん。」

    しかし、ずっと感じていた視線は気のせいであってはくれず、月が変わるといよいよ後を付けらるようになっていた。爽は最近外に出るときは必ずマスクをするようにしている。表向き花粉症だからということにしているが、顔が隠れていると落ち着くと言うのが本音だ。クラスには同じ中学出身の生徒もいたが、一人でいることが多い爽は一緒に帰る友人もいなかったので、得体の知れないストーカーに自宅を知られないよう学校が終わると毎日電車を逆方向へ一駅乗り、そこから引き返すようにしていた。

新生活に馴染めず、心身の疲れも溜まり、爽は学校を休みがちになった。

3日ぶりに登校すると、上履きが無くなっていた。

  いくら目立たないように息を殺して生きていても、こういうことはまま起こる。これまでもタチの悪い奴等に目を付けられて虐められることはあった。大抵の相手は暴力で従わせようとするのだが、今回は様子が違った。爽にはそれが虐めではなくストーカーが自分との距離を詰めてきている、自分はこんなにそばに居るぞと主張を始めたように思えた。

 

「はぁ?何が無くなったって?」

「だから・・・た、体操着・・・」

「体操着!」

  聖名が大声を出すので、爽は慌てて辺りを見回した。

「何それイジメ?ヘンタイ?」

「だから、大きい、声、大きいって。」

  爽の心配など御構い無しに、憤慨した聖名は腕を組んで鼻息を荒くした。

「ちょっと、それ誰かに言った?てゆうかケーサツに届けなきゃ!」

「いい、いいから・・・」

「何がいいのさ!全然いくないよね!」

「どうせ俺、体育は殆ど見学だし、1、2回しか着てないし。」

「そーゆー問題じゃないよね!?だって爽、今月に入っていくつ盗られた?」

  聖名に詰問され、爽は無くなったものを数えてみる。指を折るごとに次第に項垂れていく爽の頭を見ながら、

「流石に気持ち悪いっしょ。」

  聖名の言葉に同意せざるを得ない爽は、なんだか申し訳ない気持ちになった。

「ね、あのストーカー、まだ続いてるの?」

  ギクリとしたのが分かったのか聖名は深いため息をついた。

「爽が言わないでって言うからりっくんには言ってないけど、せめてガッコには言った方がいいよ。イジメじゃないなら尚更。だって部外者が入って来てるってことでしょ、セキュリティガバガバじゃん。」

  自分の危機感の無さに背筋が寒くなった爽は、クラス担任にだけ相談することにした。予想していたことだが、担任は先ずイジメではないかと疑った。それは自分の見た目が与える先入観であることも承知していたが、やはりガッカリする。イジメであれば必ずそこには悪意があり、イジメられる側がその悪意を認識していなければ成立しない。爽は入学してから誰かに悪意ある態度を取られたことは無かった。でも、だからこそ今回の得体の知れない「好意」が恐ろしくて堪らなかったのである。

 しかし幸いにも、学校に相談してまもなく物盗りはパタリと止んだ。ほっとしたのも束の間、不安定な気圧が自律神経を乱し、爽は再び休みがちになっていた。

    長雨の続くある日、微熱に火照った額を冷やすように窓もたれると、庭の紫陽花の向こうに白い傘が揺れているのが見えた。誰かを待っているようにその場所を動かない傘は、それから毎日決まった時間に現れて去って行く。何日かして体調が戻ったある朝、窓を開けたときチカッと光が爽の虹彩を刺した。反射的に目を瞑ったがその時の残像を脳がリプレイする。それは戦慄する映像だった。

    彼女だ。

自分にカメラを向け、踵を返して走り去って行く。長い黒髪が揺れる。

それは「ゆり」だった。

(家を知られた!)

咄嗟に窓下に座り込み、カーテンを閉めた。心拍の急上昇を感じながらこれまでの不可解な「好意」を思い出してみる。あの日、桜の樹の下でかけられた呪いを、爽は今ハッキリと自覚した。

彼女の手には今もまだしっかりと、自分の魂の尻尾が握られていると。

 

    梅雨前線が日本列島を過ぎ去るまで殆ど登校できなかった爽が、再び教室に戻って来るとクラスメイトの様子が変わっていた。衣替えをして夏服に身を包んだ彼らは健康で溌剌として、その眩しさに気後れする。授業も一人だけ遅れてしまったので、夏休みに補習を受けることになってしまった。親切なクラス委員長が、学期末テストの心配をしてノートを見せてくれたりもしたが、最早チンプンカンプンだったので、期末テストは早々に諦めた。

    授業後担任に呼ばれた爽が職員室に顔を出すと、そこに懐かしい顔があった。中学三年生の時の担任、志水である。彼は元教え子の顔を見ると困ったような笑顔を見せ、爽を校外へ連れ出した。

    外はもう夏の日差しである。

 

    補習を終えて帰宅すると、自宅前に一台の白いセダンが停まっていた。爽は横付けされた高級車を避けて門扉を潜った。陽は長く夕方と言っても未だ明るい。恐らく晴三郎が夕飯の支度をしているところだろう。今日は一段と暑くて疲れた。あまり食欲もないから夕飯の前にシャワーを浴びて少し眠りたい、ぼんやりと考えながらドアを開けると、玄関に見慣れない男女の靴が揃えてある。爽が訝しんでいると、リビングの方から声が響いてきた。明らかに怒気を含むその声に、爽は急いで靴を脱ぎ、リビングのドアに耳を近付けると、激昂する男の声とヒステリックな女の声が、乱暴な足音と共に近付いて来た。驚いてドアから身を引くと、運悪く声の主と思われる男女がドアの向こうから現れ、爽と鉢合わせになった。

    50代程の男は恰幅が良く白髪混じりの頭髪を撫でつけ、如何にも上等なスーツを着ていた。後から来た女がアッと声を上げ、身を乗り出すようにして爽の顔を凝視するとヒステリックに叫んだ。

「写真見ましたもの、間違いないわ!」

「貴様よくもうちの娘に・・・!」 

   男は血走った目で爽を見下ろすと、いきなり掴みかかってきた。

「このクズ野郎!」

   ギラギラと眼光は鋭く、怒りで紅潮した頬骨を震わせていた。突然の恐怖に身が竦んでいた爽は、その怒声だけで卒倒しそうになった。

「こんなガキみたいな面した奴が・・・!自分が何をしたか分かってんのか!」

   掴まれた肩に指が食い込み、思わず声を上げると相手は尚も激しく揺さぶって来る。訳が分からないまま突き飛ばされ床に転がった爽は、他人の一方的な憤怒や嫌悪が、こんなにも残酷で恐ろしいものだと初めて知った。この時の凶器の様な言葉の一つ一つを覚えている。記憶はしているが未だ15歳の彼にとって思い出すには余りに辛い体験だった。

    家長である正一郎が不在だったのが彼らを助長させたのであろう。暴言が吐き散らかされた玄関に、和二郎が塩を撒いている。晴三郎は呆然とする爽を気遣い部屋まで送ってくれた。そのままベッドに潜り込む。そうする以外何も出来なかったからだ。胸に絡みつく憎悪の残骸に心を絞られ、泥に沈むような眠りに引きずり込まれるたび、理不尽で耐え難い言葉の数々が耳に蘇る。そんなことを繰り返し、いつしか疲れ果てて、爽は眠っていた。

 

「あのね、それはナキネイリってゆうんだよ!」

    覚えたての言葉を使って、聖名は悦に入っている。一方的に言葉の暴力のサンドバッグにされ、すっかり参ってしまった爽を外して、大人たちは今後の対応についてあれこれ話し合っていた。難しい話は置いておいても、経緯を聞いた聖名としてはとても黙っていられなかったのだ。

「大体、爽なんてどーやったらニンシンするかなんてことさえ知らないんだから!」

「イヤイヤ、流石にそれは無いだろう・・・」

    自分の息子が如何に発育が遅れていようとも、そこまで未成熟であるはずはないと思いたい和二郎だった。反論してみたものの確信は無い。そう言われれば、彼からそういったことを聞かれたことは無かったし、異性への興味を感じさせるような節は微塵も無かったではないか。長男と比べればその差は明白である。これは想像以上に初心なのではないか。和二郎は暫し放心していた。仕事にかまけて息子の性教育を怠ってしまった。理紀が健全な教育をしたとどうして分かるものか。

(もしかして、本当に孕ませちまったとか・・・無いよな。)

「わっくん、どうかした?さっきから顔がおかしいよ?」

    向かいで晴三郎が心配そうに眉根を寄せて聞いてきた。

 

    灼けたコンクリートの校舎に向日葵の影がぐんぐん長くなる午後、家の最寄駅で季節限定のマンゴーフラペチーノをひと口吸い込み、聖名は隣に立つ爽の顔を覗き込んだ。

「黙ってちゃ分かんないよ。わざわざ待ってたの、何で?」

爽の両手はずっと鞄の肩掛けを握っている。呼び出した相手の顔を見ようともしないでずっと自分の爪先ばかり見つめていた。爽が人一倍繊細であることを知っているが、自分に求められていることが分からず聖名は途方に暮れていた。

    産まれたての生きものが、一人で立ち上がろうとしている。心許ない足取りにハラハラして、手を貸してはいけないと判っていても、どうにも庇護欲を駆り立てられる。結局爽が口を開いたのは、聖名が咥えたストローが派手な音を立てた後だった。

「・・・て欲しい。」

「なぁに?聞こえない。」

「一っ・・・緒に、来てっ・・・欲しい。」

    必死に絞り出した声があまりにも頼りなかったので、聖名は思わず吹き出してしまった。さっきまで青い顔をして俯いていた爽が、今度は耳まで赤くしてこちらを見ている。その困惑した顔が可笑しくて笑いはなかなか止まらなかった。

    その姿は、聖名に新しい気持ちを芽生えさせた。だから、今も彼が自分からどうして欲しいのか言い出すまで待っていた。正直、聖名は気分が良かった。それまで全て先回りして手を差し伸べていた実兄との依存関係を断ち切った爽が、初めて自分の意思で助けを求めて来たのが自分だったからだ。

    白い日傘をクルクルと回して二人は並んで再び歩き出す。行き先は四ヶ月前まで爽が通っていた中学校だった。

    この日、彼らに起きた事の詳細は家族皆が知っている。彼がどんな凄惨な光景を見たのか、とても耐えられるものではないことは容易にを想像できる程には。

 

 たった四ヶ月で終わった高校生活は、もう遠い昔のように感じる。

 新しい制服はクローゼットの奥に掛けられたまま、どうかこのまま無かったことにしてくれと息を潜めていた。